優しい雨声 1


―――今でも鮮明に思い出せる、彼女の驚愕に彩られた表情。


これ以上見開けば目玉が飛び出してしまうんじゃないかと妙な心配をしてしまった。

だが彼女がそんな表情をしてしまうのも無理はなかった。

口にした司自身、どうしてこんな時にと思う。

土砂降りの雨の中、片手に傘を、もう一方にはネギがはみ出した買い物袋。

出てきた言葉は情けなくも緊張で震えていたが、傘に跳ね返る雨音が上手く誤魔化してくれた。雰囲気も何もあったもんじゃなかったが、彼女の愁いに沈んだ心が雨雲同様、少しでも紛れればいいと。

そして、この言葉に彼女の心が喜びで晴れてくれたら、なお嬉しい。


「つくしが好きだ」


出会ってから随分と経つけれど、彼女への想いは深まるばかり。

こんな気持ちになるのは、彼女が初めてだった。

いい大人が言うのも恥ずかしいが初恋と言ってもいい。

顔を見ると目の前の世界が喜色に彩られ、目が合えば少年のように胸が高鳴り、会話をするたびに新たな一面を発見し、彼女の魅力にいっそう溺れるばかり。いい人なんかで終わりたくはない。友達止まりなんて許せない。


彼女の特別になりたいと、切に願った。




傘からはみ出た肩が、ぐっしょりと濡れていた。もしかしたら、自分は雨男なのかもしれない。

司が外へと出た途端、バケツをひっくり返したように降り出した雨を見て深いため息をついた。ここ最近、自分は雨に降られてばかりだった。何か大事な取引や遠出する日など、そういった重要な時ばかりを狙ったようにして雨が降る。

初めは「ああ、通り雨か」とぐらいにしか思っていなかったのだが、次第に「また雨か」とげんなりし、突然雨に降られることに慣れた頃には「そんなに俺が好きか」とヤケクソ気味に笑った。それでもやはり天気が悪くなれば気分は沈むし、機嫌も地面に掠めるほどに低空飛行してしまう。不運にも雨に愛されてしまった為、司はらしくもなく折り畳み傘を鞄の中に常備しているのだが、つい先日強風に煽られて骨が一本折れてしまい使い物にならなくなったので捨てたのだが、それからしばらく雨も降らなかったこともあり、新しい傘を入れるのをすっかり忘れていた。

曇天を見上げ、それからがっくりと肩を落とした。

今朝家を出た時は気持ちが良いくらい晴れていたし、天気予報でも今日は快晴と言っていたのに。見上げた天は濃い雨雲に覆われていてしばらく止みそうにもない。

次の予定まで時間が迫っている。

こんな時に限っていつもは路駐している邪魔くさいタクシーも見当たらない。もう車を呼ぶ時間もない。いつまでもここに留まっている訳にもいかず、ずぶ濡れになるのを覚悟で走り出した。


道明寺財閥の御曹司。何不自由のない生活を送る金持ちの子供。苦労知らずのお坊ちゃま。


自分に対する世間の認識などその程度のものだろう。そう思われても仕方ないと思うし、どれも本当のことだったので気にしたことなど一度もない。子は親を選べない。

道明寺家に生まれ落ちたのも、優雅な生活を送れるのも、司の意思とは関係ないものだ。

それに世間が思う程、道明寺家での生活は司にとって幸せなものではなかった。

自宅なのに迷子になりそうなほど広大な邸、時代錯誤なメイドたち、一流の料理人によって振る舞われるディナー。誰もが羨む生活も司にとってはそれが日常で、変わり映えのしないつまらない小さな世界に窒息しそうだった。

司が欲しかったのはただひとつ。愛情だ。

思わす仕事に明け暮れ家庭を顧みない両親に反発して中等部に上がると司は目を覆いたくなるほど酷く荒れた。物を壊し、人を殴る。友人たちと一緒に酒を飲み、女と遊んだ。

学校も警察も、司の後ろにある権力を恐れ、ただ嵐が過ぎ去るのを待つだけだった。

財閥の名に傷がつく、と両親は怒るに違いない。手をあげてくるかもしれない。

司は来る未来にほくそ笑んだ。

しかし実際にはどれだけ非行を重ねても両親は口も手も出してくることはなかった。

沈黙を保つ両親に、ただただ呆然とした。悪いことも、良いことも。司が何をしても彼らの心に響くことはないのだろうか。高校生になり、全てがどうでもよく、他人事に感じ、投げやりになっていた司はふと思いついた。大事な大事な道明寺家の跡取り息子。自分がいなくなったら、両親はどんな反応を見せてくれるのだろう。


司は決心した。家を出よう、と。


空虚な空気ばかりが漂う豪邸も、湯水のように溢れる金も、大財閥の跡取りの座も、何も惜しくはない。この道明寺家から持ち出すのは己の身ひとつと、身を落ち着ける場所を見つけるまでの間必要な資金だけ。一人で生計を立てることがどれだけ難しく大変なことなのかは理解している。世間知らずのお坊ちゃまである自分がどこまでやれるかは分からない。これまで過ごした邸を見やる。

いつの日か、家を出たことを後悔する時がやってくるかもしれない。

だが不思議と不安を感じなかった。

道明寺の敷地から一歩踏み出した時に感じたのは、重い枷が外れたような解放感。ここから続く道は険しい茨の道なんかではない。あるのは、広大な未来だ。

これからは財閥の御曹司ではなく、何も持たないただの人間、家も持たぬ、ただの一人の男だ。道明寺の皮を脱いだ自分に出来ることはあるのだろうか。堕落した人生だった。

何が出来るのか、何をしたいのか。それを見つけるのもいいかもしれない。なにせ時間はたっぷりとあるのだ。


(さて、どこへ行こうか)


幸いなことにこの日本は広い。捜索の手が伸びるだろうから、しばらくは東京から遠く離れた寂びれた田舎町にでも身を隠そうか。

キャップを目深に被り、上機嫌に鼻歌混じりに歩き出すと、その陽気に誘われるようにぽつぽつと雨が降り出した。それでも司の機嫌は傾くことはない。その雨粒さえも、己の門出を祝しているように思えた。

コンビニで数百円のビニール傘を購入し、再び歩き出す。行先は決まっていない。だがその足取りに迷いはなかった。


道明寺財閥の御曹司が行方不明になったのが、今から6年前の話。高校を卒業してすぐ、司が18を迎えた春の出来事だった。

Again

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