Weekend 1
数時間ぶりに外に出ると、すっかり辺りは暗闇に包まれていた。
昼間はあんなに暖かったのに、今は手袋やマフラー、コートとしっかりと着込んでいてもまだ寒さを感じる。
口元に両手をあてて、手袋の上からハアと息を吐くと冷えた顔がじんわりと温まった。
つくしがそうしていると、事務所の戸締りをしていた店長の原田が悲鳴をあげた。
「寒っ!寒すぎ!手がかじかんで鍵が閉めらんないわ」
寒さで派手に手を震わせ鍵がうまく鍵穴に入らないのを見て取り、つくしは手袋を外して代わりに鍵を閉めた。
鍵を閉める短い時間に手はかなり冷えたようで、手袋の中が熱く感じた。
駅までの道のりを二人は並んで歩きながら、冷えた両手を擦り原田はぼやいた。
「う~・・・、こんなに冷えるってわかってたら私も手袋してきたのに」
冷えますねと頷き返して、つくしは星空を見上げた。
つくしが英徳大学を卒業して入社したのは化粧品会社だった。
成績も良く他に条件の良い会社から内定をもらっていたこともあり、意外すぎる選択に友人たちには酷く驚かれた。
つくし自身、就職活動を始める前は桜子の影響で多少興味はあったものの、自分が化粧品会社を選ぶとは思ってもいなかった。
ただ、大学3年の秋に起こった出来事をきっかけに、少し考えが変わったのだ。
自分を変えたいと思っていた矢先、この会社からの内定の知らせが入りつくしの心が決まった。
今まで化粧なんてしたことがなかったつくしは、入社してからしばらくは大変だった。
ラインひとつで雰囲気がガラリと変わる様が面白くて、元来勉強熱心なつくしの腕はみるみる上達した。
化粧っ気が全くなかった自分が、こうして他人に化粧を紹介して施す立場になるとは本当に世の中何が起こるかわからない。
そして、つくしが新人の頃から面倒を見てくれた原田は、もうすぐ本社に異動することになる。
次の店長に選ばれたのがつくしで、今日の仕事が遅くなったのもその引き継ぎの為だった。
「思ったより時間かかっちゃいましたね。もうこんな時間ですよ」
「そうね。明日が休みで助かったわ。あ、そうだ牧野ちゃん!久しぶりに今から飲みに行かない?」
いい店見つけたんだ、とグラスを煽るようなジェスチャーをする。
ここしばらく原田とは飲みに行けていなかったので魅力的な誘いだったが、今日は断れない約束がある。
つくしは申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。これから友人と会う約束があるんです。飲みはまた今度誘ってください」
「そう、飲みは今度でもいいんだけど・・・。こんな時間から?」
手元の時計を見れば時刻は22時半を回っている。
友人と会うにしては遅い時間に怪訝そうな顔をした原田だったが、何かピンときたようでニヤニヤとしながら親指を立てた。
「ははぁん?わかった、男でしょ?なんだ、やっぱり彼氏いたんじゃない」
楽しそうに原田がつくしの脇腹を肘でグイグイと突いた。
化粧品会社と言っても本社は男性の方が多いのだが、流石に店舗には女性しかいない。
その為、休憩時間やたまの飲み会に話題になる話はやはり恋愛について。
つくしは誰に聞かれても彼氏はいないし募集もしていないと答えていたが、こんな夜更けからの約束に、どうやら誤解させてしまったらしい。
「違いますよ、本当にただの友人です。高校時代の先輩で、久しぶりに日本に帰国したから飲もうって誘われたんですよ」
「なるほど。ただの友人さんは男には違いないのね。こんな時間から会う約束をする男友達ってどんな人なのかしら?」
原田の鋭さに苦笑し、下手に隠しでもすれば来週から職場で質問攻めに合うと思い正直に答えた。
「元彼ってやつです」
「はっ?友人って元彼のこと?・・・もしかして元鞘に戻る予定があるの?」
つくしは絶対にあり得ない話に、プッと吹き出した。
確かにあの男のことは好きだが、それは異性としてではなく良き友人に対する好意だ。
別れてから最初の一年は普通に会話するにも気まずさがあったがそれもすぐになくなり、今では誰よりも気安く話せる一番の友人だ。
これまでは相談する相手と言えば親友の優紀だったが、ここ数年、その相手はあの男へと変わっている。
価値観や金銭感覚、モノに対する考え方はつくしとあの男とでは天と地ほど違うが、
時折、つくしや他の誰も気づかなかったようなことや、的を射た意見をすることがある。
それに異性の相談相手なんてそうそう見つかるものでもなく、そんな男の存在をつくしは大事にしていた。
「まさか。別れてからもう8年も経つんですよ?付き合いが長すぎてもう恋人としては見れないです」
「そんなもんなの?あ、丁度電車来てる。それじゃあ、また今度私の昇進祝いに詳しく聞かせて。元彼さんによろしくね!」
つくしとは逆方向へ向かう電車がホームに入って来るのを見て、原田が手を振った。
最後まで見送ろうと白線の前に立っていたつくしだが、原田が電車に乗り込む前にふと思い出したことを聞いてみた。
「・・・原田さん、風化しない想いってあると思いますか?」
突然の質問に原田は首を傾げ、難しそうに眉を寄せて少し考えた。
「え?うーん・・・、ないんじゃないかな?やっぱりその時どんなに好きでも、いつかは忘れちゃうもんよ」
電車を降りて飲み屋街とは正反対の方向へ足を向けて駅から歩くこと5分、つくしは目的の場所に到着した。
そこは住宅街の中に立地しており、少し奥まっているので初見の客は案内がなければ絶対にわからない。
こんな場所で商売が成り立つのかとつくしは疑問に思ったが、
以前、つくしが一人で飲んでいた時に店に出ていたオーナーは「道楽でやってるからいいんだ」と笑顔で話していた。
毎日汗を流して働き生活資金を稼いでいるつくしには、利益を追求せずに店を営む人間の思考は理解出来そうになかった。
寂びれたビルへ入り、軋む階段を上るとすぐに『Oblivion』と書かれたプレートがかかった扉が目に入る。日本語で『忘却』を意味するこのバーを、つくしは気に入っていた。
扉を開けると広さが十畳程しかない狭い店内に、客は一人しかいなかった。
入口から一番遠いカウンター席に腰かけているスーツ姿の男性。薄暗い照明の中でもそのスーツの仕立ての良さがわかる。
昨日届いたメールには今日の夕方頃日本に着くと書いてあったが、私服でない所を見ると帰国早々彼も仕事だったのかもしれない。
つくしに気づいたバーテンダーがグラスを拭きながら軽く会釈をする。
すっかり顔馴染みとなったバーテンダーの青年につくしも片手を挙げて挨拶をした。
「お待たせ」
ポンと軽く背を叩いて隣の席に座ると、こちらを向いた男がむっすりとした表情でつくしを睨む。
男の視線も無視してつくしはバーテンダーに「この人と同じの」と注文をするが、男の目の前に置かれていたのはドライ・ジンがベースのカクテル、マティーニ。この男がカクテルを飲んでいる姿は今まで見たことがなく、珍しさに目を瞬かせた。
「・・・10分遅刻。相変わらず時間が守れねぇ女だな」
「ごめんごめん。でも、あれだよ。女は男を少し待たせるくらいが丁度いいって言うじゃん?」
「丁度よかねーよ。時間は守れ、常識だろ」
つくしが知っているこの男は昔、自己中心的で高慢我儘なお坊ちゃんだったが、意外にも時間には厳しく約束の時間に遅刻をした事は一度もない。雪が降る中、屋内に避難もせずに4時間もつくしを待ち続けていた馬鹿で愛しい男。久しぶりに顔を見たせいか、昔のことをぼんやりと思い出した。
こんな感傷にひたるのも随分と久しく、誤魔化すように声をあげて笑い、男を揶揄った。
「あはは、あんたに常識を説かれるとはね。時間の流れって恐ろしいわ」
「・・・ふん」
男も昔の自分を思い出したのか、少しばつが悪そうな顔になった。悪さがバレた子供みたいな男の態度が可愛く思えて、つくしはくすりと小さく笑みをこぼした。
見た目も言動も大人になったように思えるが、昔と変わらないところも多くて、そのギャップがおかしかった。
「スーツってことは仕事だったの?」
「あっちでな。ジェットの中で着替えるのも面倒だったからそのまま来たんだよ。お前もだろ?」
「うん。思ったより時間かかっちゃって遅くなったんだ。ここに来るまで寒すぎて死ぬかと思ったよ」
どれだけ外が寒かったか教えようと、つくしは男の両手を取って自分の冷えた頬を触らせた。予想以上の冷たさに驚いたのか、肌に触れた瞬間、男の手がビクリと震えた。
つくしはその手を離さずに男を見上げた。
「ね、冷たいでしょ?・・・うぶっ!」
男の両手が頬を力強くプレスして、つくしの顔が蛸のようになる。
目の前で蛸になった女の変顔に、男はふっと小さく笑った。
「化粧も覚えてちったあ見れる顔になったかと思ったが、俺の勘違いだったみたいだな」
そのまま話し続ける男の手を払いのけて怒鳴った。
「何すんのよ、もうっ。子供みたいなことしないでよね、馬鹿」
「馬鹿はお前だろ。こんな薄っぺらいコート着やがって・・・今度俺がまもとなコート買ってやる。女が体冷やすんじゃねぇよ」
男はカウンターチェアの背に掛けられていたつくしのコートを摘まんでそう言った。思わぬ気遣いにつくしは毒気を抜かれた。
もう恋人ではないのに男はこうした甘い優しさをたまに覗かせる。粗雑な言葉使いとは裏腹に、この男は紳士で心優しい。それが妙にくすぐったく感じて、つくしは口元を歪めた。
「・・・遠慮しとく。このコート気に入ってるし。それに、あんたに任せたら桁違いのコート買ってくるでしょ」
傍から見れば良い雰囲気の二人の様子を伺っていたバーテンダーが、タイミングを見計らってマティーニを差し出した。つくしはそのグラスを目の高さまで掲げて、男の方へ体ごと向きを変えた。
「3年ぶりの日本だね。・・・おかえり、道明寺」
カウンターに置かれていた司のグラスに自分のグラスを合わせて乾杯をする。
その言葉に少し驚いた様子の司だったが、年を重ねて深みが増したように思える美貌に薄っすらと笑みを湛えた。
「ああ、ただいま」
三年ぶりに会う友人で、八年前は恋人だった男の柔らかな返答に、つくしもにっこりと微笑んだ。
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