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「あ?ババアが戻ってる?」
「はい。司坊ちゃんがお戻りになられたら、すぐにお部屋に来るようにと奥様が・・・」
日にちを超えようかという遅い時間に邸へ帰宅すると、出迎えた使用人から母親が帰国していると聞き司は驚いた。
ホテル事業で多忙な母親は世界中を駆け回っていて、息子である自分とさえ顔を合わせるのは誕生日の年に一回程度だ。小学校低学年の頃までは自分も幼すぎて父も母もいない環境が理解できず、広大な邸には姉と自分だけ。その寂しさから毎夜ベッドで大泣きをしたもんだが、18歳にもなった今ではいない方が清々としている。
(ババアが戻ってくるなんて何かあったのか?)
もちろん今日は司の誕生日なんかではない。
母が帰国する時は必ず邸に連絡が入り司にも事前に知らされるのが常だったが、今回はその連絡がなかった。使用人たちが連絡を怠るとは考えられない為、司が帰宅するまで母が口止めを指示したのは明らかだ。
呼び出しを食らう時は大抵がろくでもない用件で、司は考えただけでもげんなりとした。
一応ノックをすると、扉の中から「どうぞ」と抑揚のない声で入室の許可が下る。滅多に近寄ることのない母楓の私室の扉を開けば、遅い時間だというのに寛いだ様子もなく、パソコンに向かって仕事をしていた。呼び出しておいて、こちらを見向きもしないのもいつものこと。
司は室内には入らず、扉に凭れかかったまま声をかける。
「ンだよ、俺に用って」
「明日の午後5時、メープルホテル東京本店5階鳳凰の間に来るように」
「はあ?」
メープルホテルだと?
何を企んでいるのかと怪訝そうに顔を歪めていると、そこでようやく楓がこちらを向いた。
「あなたの婚約者となる方を紹介します」
その時はまた厄介な事に巻き込まれたと思っていた。
所詮は自分も財閥の一部分に過ぎず、いつかはこういう日も来るだろうと覚悟はしていた。それでも実際に婚約者を紹介すると告げられれば、体のどこからか親への反発心と嫌悪感が沸いて。
しかし鉄の女と呼ばれる母に何を言っても無駄なのは十分過ぎる程理解していたので、沸々と湧き出る苛立ちをギリと歯ぎしり一つで押さえて、楓の部屋を後にした。
後に司は、楓の命令に従い婚約者と会って本当に良かったと心から感謝したのだった。
翌日、1時間前にホテルへ行くと待ち構えていた使用人たちに控室に引きずり込まれ、無理やり紋付袴に着替えさせられた。着替えが終わるとドレッサーの前に座らされ、癖の強い司の髪をヘアスタイリストが整えていく。
特に変わり映えしない髪形を無表情で鏡越しに見つめていると、総刺繍された葡萄唐草が鮮やかな黒留袖姿の楓が映る。
「今日は逃げずに来たようですね」
会って早々に嫌味をぶつけてくる楓に、憎々し気に顔を歪ませる。
「どうせ逃げたって、てめぇの犬どもが追いかけてくるからな」
「賢明な判断ですね」
司の返しもどこ吹く風といった感じで、楓の表情は冷たいまま。
どうにか出来る相手とは思っていなかった司は、とりあえず知りたいと思っていたことを聞くことにした。
「で?俺の婚約者とやらは、どこのどいつなんだよ」
「牧野商事の牧野つくしさん。永林学園に通われていて、今は17歳ということだから貴方より一つ年下のお嬢さんよ」
「牧野つくし?」
聞き覚えのない名前に司は訝し気に首を傾げる。
まだ高校生の身ではあるが、自身の誕生日パーティーや親の付き合いで財界、政界の知り合いは多かった。それなりに道明寺財閥に益のあると思われる人物は頭に入れていたのだが、牧野という名前は初耳だ。
もしかすると司が単に知らないだけかもしれないが・・・。
姉の椿は一般のサラリーマンと交際をしていたが、母の計略によりホテル王と結婚する羽目になった。それは楓が手掛けるホテル事業拡大を狙ったもので、楓の思惑通り、婚姻による財閥への利益は莫大だった。
自分の子を財閥の道具としか思っていない母。それなのにどうして財閥の足しにもならない弱小な相手を選んだのか。
母の考えが読めず、足元からじりじりと這い寄る不安に司は眉を寄せる。
そんな司の脳内を覗き込んだように楓が言った。
「司さんが牧野商事をご存知なくて当然よ。あんな会社、吸収しても道明寺に何のメリットもありません」
キッパリと言い切った楓に、司は益々眉根を寄せる。
「どういうことだよ」
「本来なら貴方には大河原財閥の一人娘、滋さんとの縁談を望んでいました」
大河原財閥のことなら司も知っていた。
確かにアメリカの石油王と提携を結んでいる大河原財閥の娘と婚姻関係を結べば、更に道明寺は巨大になるだろう。道明寺にも大河原にも旨味のある縁談。
話を持ち掛けられた大河原の反応は悪くはなく、楓は手応えを感じていたのだったが事態は一転する。令嬢にしては少し変わり者と評判だった滋が猛反発をし、嫌がる娘に大河原が折れたのだ。同じ大財閥でも、大河原の方は事業より子を思い縁談を断った。子を子として思ってもいない道明寺とは雲泥の差だ。
顛末を聞いた司は大河原に喝采を送った。
ざまあみろ、と。鉄の女の顔に泥水をぶっかけてやったような気分だ。
しかし、縁談を断られた楓はそこで終わるような女ではなかった。
「滋さんとつくしさんは永林学園中等部の頃からの親交の深い友人・・・いえ。親友、だそうよ?」
毒々しい程に紅い唇が弧を描く。
司自身、人前に威張れるような清く正しい生活は送っていない。
だが滋が駄目なら仲の良いつくしを取り込み、道明寺と大河原の中継ぎをしてもらおうという魂胆には反吐が出そうだった。
「ハッ・・・。それで牧野から懐柔しようって?ババアにしては随分と子供じみた手を使うじゃねぇか」
「お好きに言いなさい。これも道明寺財閥の為です」
控えめなノックの後に、ホテルの従業員と思われる男が頭を下げた。
「牧野様がお越しになられました」
鳳凰の間に入ると牧野つくしと思われる黒髪の少女と、その母親の後ろ姿が見えた。
扉の開閉音に気づいた2人がこちらに振り向く。
「お待ちしておりました、牧野さん」
「まあ、道明寺さん!こちらこそ、このような席を設けて頂いて何とお礼を申せばいいか・・・」
道明寺財閥の夫人であり社長の楓にペコペコと頭を下げる女の姿は、司が今まで何度となく見てきたものだ。隠しもせず、あからさまに媚び諂う相手の母親に司は嘲笑った。
楓にいいように使われるだけだというのに。
だが、牧野商事にしてみれば道明寺財閥の手足になれるのならそれでもいいのかもしれない。
母親たちのやりとりを下らなさそうに眺めていると横から強い視線を感じ、司は自分を見ていたつくしと初めて目を合した。
純白のワンピースに、ピンクベージュのファーボレロ。ヒールの低いシンプルなピンクゴールドのパンプス。正面から婚約者となる少女を上から下まで不躾な程見つめ、司は呆気に取られる。
(並以下のブスじゃねぇか)
母親が母親なら、娘も娘だ。
司が親友たちの付き合いで普段一緒にいるグラマーな女たちとは比べようもなかった。背も低く、洋服越しからでもわかる程のっぺりと凹凸のない子供のような身体。
その洋服も、司の寝間着よりも安そうなチンケな代物であろうことが遠目でも伺える。こんな場所でなければ、司の視界の端にも止まりそうにない石ころのような女だった。
(これが俺の婚約者だってか)
F3が見れば何の冗談かと腹を抱えて笑うだろう。
出来れば司も冗談で終わらせてほしかったが、今回ばかりはそうもいかないだろう。
牧野家にしてみれば願ってもない縁談で、断るという選択はありえない。この縁談に自分の意思はどこにもなく、将来の妻となる女は酷くみすぼらしい。
夢を見ていたつもりはなかったのに司の心は急速に冷え込んでいく。
「ほらつくし!なにボーッと突っ立ってるの!司さんにご挨拶なさい!」
母親に背を押され、つくしが司の正面に立つ。
司はつくしと再び目を合わせたが、下から見上げてくる瞳には何も映っていないことに気づいた。
道明寺家に嫁げるという喜びも興味も感じられない無機質な瞳。
「初めまして、牧野つくしです」
初めて耳にする声は、高すぎず低すぎない心地の良いものだった。ただその声音からもつくしの感情を読み取ることは出来ない。
機械的に頭を下げた少女を黙って見下ろす。黙りこんだまま挨拶をしない司に、ちらりと楓が一瞥を投げる。
その凍えるような冷めた瞳には破談にすることは許されないという圧を感じ、渋々口を開く。
「・・・・・・どーも」
「気を悪くしないで頂戴ね、つくしさん。貴女を前にして照れているみたい」
気色が悪くありえない楓のフォローに思わずくっと皮肉めいたい声がもれた。
誰がこんな女に照れるというのか。
「はい、気にしてません」
つくしも本心からの言葉ではないことがわかっていたのか。本当に気にしてないだろう返事が聞こえた。顔もスタイルも並以下、人形のように気味の悪い女。どう見ても司の好みからはかけ離れている。
ただ唯一気になったのは、司を貫くあの大きな瞳。
黒曜石を嵌め込んだような澄んだ瞳に見つめられると、なぜか胸がざわつき落ち着かなかった。
追い出されるようにして鳳凰の間を出た2人は、ホテル内のラウンジに来ていた。
ラウンジには司とつくし以外に客はおらず、静かなラウンジ内には中央にあるグランドピアノの自動演奏だけが流れている。お互い席に着くまでずっと沈黙だったが、そろそろ我慢の限界だった司が口を開こうとした、その時だった。
「あの、道明寺さん」
窓から見える東京の風景を眺めていたつくしが突然話しかけてきた。
「んだよ?」
「本当に結婚するつもりなんですか?」
「は?」
意味がわからず眉を顰める。
結婚するも何も、ここまで来たら逃げられるはずもない。
白紙に出来るものなら司もそうしたかったが、どうせまた別の女が用意されるだけの話だ。
それに良く良く考えてみれば司にとって悪い縁談でもないかもしれないと思った。鼻を摘まみたくなるほど香水をつけた姦しい女より、この物静かな女の方が幾分かマシというもの。
どうやら様子を見ているとつくしも司に興味がないようで、仮面夫婦というやつにはなるだろうが互いの為話せば理解は得られるのではないだろうか。
「道明寺さんのこと、いろいろと友達から聞いたんです」
その友達とは、仲が良いと言っていた大河原滋のことなのか。
つくしが一体何の話をしだすのか、足を組み直し前のめりに肘をつく。
「道明寺社長・・・いえ、お母さんとは犬猿の仲で、英徳でも赤札とかいう面白い遊びをされてるって」
「ふん・・・で?俺がババアと仲が悪ィのも、英徳で何してようがお前に関係ねえだろ?」
そんな話かと、司はつまらなさそうに溜息をつく。
司には全く興味がないように見えたつくしが、事前に聞き込みをしていたことに少し驚いた司だったが、母親との仲も英徳でのことも、どちらも司を知る者なら有名な話で改めて聞かれるような事ではない。
「いいえ、大いに関係あるわ」
「あ?」
急につくしの口調が変わり、テーブルに置かれていたコーヒーの波からつくしへと視線を戻す。目の前のつくしを見て、司は驚愕のあまり開いた口が閉じなかった。
(誰だ、この女)
さっきまで司と話をしていたのは感情が欠落した人形のような女だった。
それが今はどうだ?
印象的だった大きな瞳は怒りの炎を湛え燃え盛り、生気に満ち溢れている。
それまでは乾いていたはずの黒髪すら艶やかに見える。
見れば全体的に小づくりな顔立が、とても魅力的に思えて・・・。
「あたし、暴力を振るう男って大嫌いなの。18にもなって学校でイジメなんて恥ずかしくないの?」
「子供みたいなことして大人なのは図体ばっかりね!」
何も言わない司につくしの口は止まらない。
唾を吐きつけんばかりに睨みつけたつくしは、びしりと人差し指を司の眼前に突き付ける。
「あたしがその腐った根性、叩き直してあげるわ!」
ソファを蹴りあげるようにして立ち上がったつくしが、テーブル越しに司の右頬を強く打った。
パン、と乾いた音が響く。殴られてなお、司の口から言葉が漏れ出ることはない。
(暴力が嫌いって・・・てめぇも殴ってんじゃねぇか)
反撃されるかと内心ビクついていたつくしは微動だにしない司を訝しげに見つめたが、ここまでやってしまったのだからどうにでもなれ、と開き直る。
「・・・それと!おば様の計らいで、来月から英徳学園に転校することになったの」
どうぞよろしく、センパイ。
にっこりと、向日葵のような眩しい笑顔でつくしが握手を求める。つくしは言葉にも笑顔にも嫌味を込めたつもりだったが、それに司が気づくことはなかった。
しばらく呆然としていたが、はっと正気を取り戻したかのように汗ばむ手の平を慌てて太腿で拭ってからつくしの手を握り返した。
握りしめた小さく細い手から伝わる確かな熱に、司は伝播したかのように頬を赤らめた。
殴られたことに対する怒りは、全くない。
むしろ殴られたおかげで、目が覚めるような気分だった。
今まで自分を殴った女は姉の椿くらいで。
誰もが司と対話する際に気にしていた道明寺の家も、司の顔にも興味がないと言い切ったつくし。権力や孤独、様々な負の感情に塗り固められた外見の司ではなく、この女なら自分自身を見てくれるのではないか、と。
まだ出会ってから1時間も経っていない。きっと互いに印象は最悪だったはずなのに。
つくしとなら、結婚も嫌ではないと不思議に思えた。
今まで誰かを信用することのなかった司だが、今回だけ己の直観を信じてみたかった。
「お、おいっ!お前みたいな女、好みじゃねーけど、つ、付き合ってやってもいいぜ?」
「はあ?付き合ってやってもいい?冗談でしょ」
顔を真っ赤にして高慢ちきな司の態度に、つくしはフンと馬鹿にするように鼻で笑った。
「ま、お友達からなら考えてあげなくもないけど?」
とりあえず、お手紙からね。
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